パソコンがない時代、文章を印刷するにはどうやっていたか知っていますか?
今回は、その時代に活躍した「活字拾い」について取り上げます。

活字拾いとは

「活字」というと、現代では「印刷された文字」というイメージですよね。
しかし元々は、活版印刷に使われる「活字」のことを指しました。

活版印刷に使われる日本語の活字

パソコンで印刷ができるようになる前は、活版印刷が主流でした。
活版印刷では、ひとつひとつ文字が書かれた金属製のスタンプのようなものを使います。
これが活字です。

活字拾いの作業は、まず特定の文章や本の内容に基づいて、必要な活字を一つずつ選び出すことから始まります。
例えば、「The quick brown fox jumps over the lazy dog」という文章を印刷する場合、職人は「T」「h」「e」など、全ての文字を個別に拾い集めます。

Metal movable type
活字を並べて文章に組まれたもの
Willi Heidelbach, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

集めた活字を原稿の文章通りに並べ、それにインクを塗り、紙に押し当てて印刷します。
これが活版印刷です。

Flatbed Letterpress Diagram
活版印刷 の仕組み。”metal type”が活字
PNG: Peter FlynnSVG: Rehua, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

ひとつひとつ活字を手作業で集めるのは、集中力と根気と忍耐力のいる骨の折れる作業でした。
しかし活版印刷は、それまで手書きで行われていた書籍の制作を大幅に効率化し、多くの書物を短時間で作ることを可能にしました。

日本の活字拾いと世界の活字拾い

活字拾いは、日本にも世界にも存在しました。

活版印刷は、1445年頃にドイツのヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg)が聖書印刷に初めて用いたとされています。

ところでこの「Gutenberg」、ブログを書いている人ならどこかで見たことはないでしょうか。
WordPressのブロックエディタの名前が「Gutenberg」ですよね。

「Gutenberg」の説明ページのトップ画像も、活版印刷に使われる活字です。
印刷業界に革新を起こしたグーテンベルクから名前をとっているのです。

日本の活字拾い

日本での活字拾いの歴史は、江戸時代後期に始まります。
西洋から活版印刷技術が伝わり、特に19世紀後半に普及しました。
明治維新以降、日本は西洋技術を積極的に取り入れ、印刷技術も急速に発展しました。
活字拾いはこの時期に必要不可欠な職業となりました。

日本語はひらがな・カタカナ・漢字・英字・数字と文字の種類が多く、さらに文字ごとにサイズ違いなどもあり、何万もの膨大な活字の中から必要な文字を探す必要がありました。
このため活字を集める「文選ぶんせん」と、組版を行う(=集められた活字を文章に組み立てる)「植字」が分業で、連携して作業を進めていました。
このうち「文選」が活字拾いのことです。

Japanese printing type,Japan
日本語の活字量。アルファベットに比べてかなり多い。
katorisi, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

文選工の主な仕事は、原稿を見ながら、必要な活字を「すだれケース」と呼ばれる棚から一つずつ拾い出すことでした。
活字は、大きさや字体ごとに分けられていて、1つのケースに約5,000個もの活字が入っていました。
文選工は、この中から正しい活字を選び出し、「文選箱」に納めていきます。

文選箱に活字を集めている様子

東京にある「市谷の杜 本と活字館」には、かつて実際に使われていた活字や活版印刷機があり、活字拾いの体験ができるワークショップも定期的に開催されています。
紙モノが好きな方にはたまらないアイテムがいっぱいのショップやカフェもあるので、興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

世界の活字拾い

英語では、活字拾いのことを「typesetter」と言いました。
アルファベット圏は大文字・小文字合わせても52文字と少なく、分業する必要がなかったので、活字を拾いながら文章を組む「拾い組み」という方法で作業が行われていました。
※実際は外国語(ラテン語やギリシャ文字)もあるのでもう少し文字数は多い

どんな人が活字拾いとして働いていたのか

江戸時代末期から明治時代にかけて、活字拾いの仕事は比較的新しい職業でした。
当時の日本では、まだ多くの人々が農業や手工業に従事していましたが、活字拾いは都市部で発展した新しい産業の一つでした。

一人前の文選工になるには、数年の修行が必要でした。
膨大な活字がたくさん並べられた棚のどこにあるかを体で覚える必要がありました。
長時間の立ち仕事で、鉛でできた活字は大量になると重く、体力が必要だったため、主に男性が熟練の文選工となりました。

さらにこの仕事は、とても細かい作業で、高度な集中力と記憶力が必要でした。
活字は小さくて、似たような形の文字もたくさんあります。
しかも、活字は左右が逆になっているので、鏡に映った文字を読むような感覚が必要でした。

漢字の活字。よく見ると左右が逆。

活版印刷は、その発明からおよそ5世紀にわたって印刷の主流であり続けました。
一般書籍だけでなく、毎日発行される新聞も活版印刷で作られていたため、仕事の口は多くありました。

時刻表に組まれた活字

宮沢賢治が書いた童話作品『銀河鉄道の夜』では、主人公の少年ジョバンニが活字拾いのアルバイトをしています。
家計を助けるため、多くの子どもや女性も文選として働きました。

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1955年3月頃。日本の新聞社の植字作業室
産業経済新聞社(Sankei Shinbun Co., Ltd.), Public domain, via Wikimedia Commons

活字拾いの収入と生活レベル

都市部と地方で差はあったでしょうが、各時代ごとの文選の賃金を見るとおおむね次のようになっています。

明治

明治42年(1909年)に出版された『立志之東京』(渡辺光風 著)によると、熟練の程度によって相違があるが、文選の日給はおおよそ35銭~50銭程度だったとあります。
子供工・女工はさらに低く、弁当付き15銭。
子供工・女工は主に、印刷し終わったあとの活字を漢字・かななど分類ごとに分けて元に戻す「解版かいはん」という補助的作業を担っていたようです。
また『立志之東京』には、当時の東京の労働者世帯(夫婦と子供一人)の生活費が14円ともあります(貯金分を除く)。
文選の賃金を月給で考えると、35銭×25日で月給8.75円、50銭×25日で月給12.5円。
新人文選は独身ならまあなんとか、熟練の文選で所帯を持つとやや厳しいが、めちゃくちゃ貧乏ではないといったところでしょうか。

大正

『現代生活職業の研究 : 一名・最新職業案内 2版』(東京職業研究所 編、大正12年)によると、この頃の給与は次のようになっていました。

  • 解版初心者(少年少女工)で月給15円以上、日給50~60銭以上。
  • 解版一流女工で日給2円~3円。
  • 文選の一般従業員で月給50円~7・80円、日給2円50銭~3円。
  • 主任レベルで月給7・80円~150円、日給4円以上。

大正末期は、大卒初任給(月給)が約40~50円。
一人前の文選であれば、それなりにもらえていたようです。

昭和

時代は下って、昭和27年5月の『職種別賃金調査結果表』(東京商工会議所 編、1952年)によると、事業所規模によって少し差はありますが、当時の文選男工の平均月給はおよそ14,000円、平均日給は600円、平均時給は60~78円とあります。
同じく昭和27年5月の1世帯あたりの平均支出は16,589円とあるので、この頃はまた「やや厳しいがめちゃくちゃ貧乏ではない」ぐらいでしょうね。

ところで『職種別賃金調査結果表』には、他にも文選の詳細な実態が書いてあります。
文選男工の平均年齢は、大規模事業所(従業員200人以上)で26.5歳、小規模事業所で32.6歳。
※この頃には、労働基準法によって満15歳の年度末を迎えるまで、年少者の雇用が禁止されています。
1日あたりの平均労働時間は大規模事業所で8.06時間、小規模事業所で10時間。
1ヶ月あたりの就業日数は、大規模事業所で22.1日、小規模事業所で23.6日だったようです。

活字拾いに関する逸話

山岡荘八は文選で大もうけした!?

大河ドラマ『独眼竜政宗』の原作を書いた歴史小説家・山岡荘八は、14歳のときに母方の親戚の伝手を頼り、当時(大正10年ごろ)の日本最大の出版社・博文館で文選として働き始め、月給60円をもらっていたといいます。
16歳にして当時の大卒初任給以上、妻子を養えるほどの賃金をもらっていたため、この時期はお金が有り余って困っていたほどだそう。
大手勤めということ、縁故採用ということも影響しているかもしれませんが、この頃が文選の最盛期かもしれません。

活字拾いとして働いていたアメリカの政治家

アメリカ独立戦争の指導者の一人であり、多くの発明で知られるベンジャミン・フランクリンは、若い頃に活字拾いとして働いていました。
10歳で学校を中退し、家計を助けるために活字拾いとして働きはじめましたが、独学で多くの本を読み、知識を深めました。
活字拾いから自分の印刷所を持つまでに成長し、アメリカ初のタブロイド誌を発行したり、アメリカ初の公共図書館を設立。
さらには政治家になってアメリカの独立を支えました。
現在ではアメリカの紙幣にも描かれ、「アメリカ建国の父」として愛されています。

Obverse of the series 2009 $100 Federal Reserve Note
100ドル紙幣に描かれているフランクリン
Bureau of Engraving and Printing, Public domain, via Wikimedia Commons

若い頃に印刷所で働いた経験のある海外の著名人はたくさんいて、『トム・ソーヤーの冒険』を書いた作家マーク・トウェイン、第29代アメリカ大統領ウォーレン・ハーディング、第36代アメリカ大統領リンドン・ジョンソン、第10代オーストラリア首相ジョセフ・ライオンズ、第51代メキシコ大統領ラザロ・カルデナスなどが挙げられます。

活字拾いが社会に与えた影響

活字拾いは、印刷技術の発展と情報の普及に欠かせない役割を果たしました。
印刷技術の発展により、多くの印刷物が安価に生産され、情報や知識が広く普及しました。
これにより、教育の機会が広がり、多くの人々が読み書きを学ぶことができるようになりました。
印刷技術が普及する以前は、手書きの本は非常に高価であり、一般の人々には手が届きませんでした。
しかし、活版印刷によって本の価格が下がり、多くの人が手軽に本を手に入れられるようになったのです。

ヨーロッパの宗教改革時代には、マルティン・ルターの著作が大量に印刷され、多くの人々に読まれました。
これにより、宗教的な考え方や学問が広まり、社会全体の教育水準が向上しました。
18世紀後半のアメリカ独立戦争では、トマス・ペインの『コモン・センス』というパンフレットが印刷され、アメリカ独立の正当性を説きました。

"Common Sense" by Thomas Paine - Museum of the American Revolution by Joy of Museums
トマス・ペインの『コモン・センス』
Joyofmuseums, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

フランス革命の時代には、ジャン=ジャック・ルソーやヴォルテールといった啓蒙思想家の著作が大量に印刷され、革命の理念が広まりました。
これにより、多くの人々が自由や平等の重要性を理解し、社会の変革を推進する力となりました。

明治時代の日本では、活字拾いを通じて多くの文学作品が印刷されました。
夏目漱石や森鷗外といった作家の作品が広く読まれることで、日本文学が大きく発展しました。
また、海外の文学作品や学術書も翻訳され、多くの日本人が世界の知識に触れることができるようになりました。

活字拾いはなぜ廃れたのか

活字拾いが廃れた最大の理由は、技術の進化です。
特に1960年代から1980年代にかけて起こった技術革新が、大きな転換点となりました。

1960年代に入ると、写真植字という新しい技術が登場します。
これは、文字を写真のように撮影して印刷する方法で、活字を一つずつ拾う必要がなくなりました。
写真植字機の導入により、印刷所は少ない人員で大量の印刷物を短時間で生産できるようになりました。
これにより、人件費の削減が可能となり、印刷物のコストも大幅に低下しました。

さらに、1980年代になると、コンピューターを使った印刷(DTP:デスクトップパブリッシング)が主流になっていきます。
DTPでは、文字の入力から書体やサイズの変更、写真の配置といったレイアウトまで、全てパソコン上で完結します。
これにより、活字拾いの仕事はほとんど不要になったのです。

活版印刷は商業印刷の主流ではなくなりましたが、そのノスタルジックで味わいのある仕上がりを好む人は多く、現在でも郵便物や結婚式の招待状などに使われることがあります。

活字拾いの問題点

活字は、主に鉛、そして錫・アンチモンの合金でできていました。
このうち鉛が有毒で、鉛中毒を引き起こすことがありました。
長時間の接触や、鉛の粉じんを吸い込むことで健康被害が生じる可能性があったのです。
これは当時から知られていたようで、作業後には必ずよく手を洗う必要がありました。

慢性中毒は、初期症状として、疲労、睡眠不足、便秘、摂取量が増えるに連れ、腹痛、貧血、神経炎などが現れ、最悪の場合、脳変性症に至ります
また、もし経口摂取した場合、子どもの方が大人より吸収率が高い傾向にあります。

ジョバンニはなぜ銀河鉄道に乗れたのか

幻想的な銀河めぐりの情景が美しい宮沢賢治 著『銀河鉄道の夜』ですが、銀河鉄道は死を感じさせる電車でもあります。
乗客が明らかにタイタニック号乗船者だったり。
さてそんな銀河鉄道に、最終的に生還するジョバンニがなぜ乗れたのか?

もしかしたら、ジョバンニは鉛中毒を患い始めていたのかもしれません。
冒頭に「このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく…」とありますしね…。

『銀河鉄道の夜』は、青空文庫で読むことができます。

活字拾いを描いた映画、文学作品、漫画など

絵本『銀河鉄道の夜』(原作:宮沢賢治、文・絵:藤城清治)

チェルシー

「銀河鉄道の夜」の書籍はいろいろありますが、個人的に推したいのがこの影絵の第一人者・藤城清治さんの絵本。藤城清治さんの作風の美しさと幻想的な雰囲気がまたよく合って、一生残したいほどの作品になっています。また、本作はチェコスロバキアのブラチスラヴァ国際絵本原画展で金のリンゴ賞を受賞しています。

アニメ映画『銀河鉄道の夜』(1985)

監督:杉井ギサブロー、製作国:日本、原案:ますむらひろし、キャスト:田中真弓、坂本千夏、堀絢子ほか

チェルシー

登場人物が猫化していますが、意外とこれが良い。原作の持つ雰囲気を損なわない、ファンタジーの傑作に仕上がっています。活字拾いの場面もしっかり描かれていますよ。第40回(1985年)毎日映画コンクール・大藤信郎賞受賞作。

児童文学『活版印刷三日月堂』シリーズ(ほしおさなえ 著)

チェルシー

祖父が残した活版印刷所を再開させた現代の孫の話。三日月堂に訪れるのは心に迷いや悩みを抱えた人。店主の弓子が、お客さんの思いをひとつひとつ活字を拾って形にすることで、お客さんも、そして弓子の心も解きほぐされていく優しいお話です。

AIで再現!大正時代の活字拾いの少年たち

AIに描いてもらった活字拾い
AIに描いてもらった活字拾い
AIに描いてもらった活字拾い
AIに描いてもらった活字拾い
AIに描いてもらった活字拾い
AIに描いてもらった活字拾い

棚の形が違うんですが、まあしょうがないかなというところです。
大正時代の少年アルバイトをイメージ。
要はジョバンニっぽい境遇の子です。

参考資料