「瞽女(ごぜ)」とは、中世から近世にかけて日本各地で活躍した、盲目の女性旅芸人のことを指します。
彼女たちは、三味線や琵琶を奏でながら、語り物を披露して人々を魅了しました。

東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場
歌川広重『東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場』(1833-34)
中央に描かれている3人の女性は瞽女たち。
よく見ると、それぞれ楽器を持っている。

瞽女の仕事内容は?どんな人が瞽女になった?

『日本盲人史』(中山太郎 著、1934年)によると、盲目の女旅芸人を「瞽女(ごぜ)」と呼ぶようになったのは、貴人や高位の女性への敬称「御前(ごぜん)」が転訛したから、また貴人の御前で芸を披露することに由来するのではないかと推察されています。

実際に、高貴な人の前で瞽女が芸を披露した記録が残っています。
伏見宮貞成親王の日記『看聞日記(かんもんにっき)』には、応永25年(1418年)8月17日の項に、「盲目の女芸人・愛寿とその弟子・菊寿が伏見を訪れたので、御前に呼んで芸をさせた。今様(流行歌)を5~6句歌った。大勢の聴衆が集まった」とあります。

また、1500年末ごろに書かれた『七十一番職人歌合』にも瞽女の姿を見ることができます。

七十一番職人歌合
職人尽歌合(七十一番職人歌合)(模本)
東京国立博物館研究情報アーカイブズ

『七十一番職人歌合』は、様々な職業の人が歌合をしているところを描いたもので、琵琶法師とならび「女めくら」(瞽女)が登場します。
琵琶法師は「あまのたくもの夕煙、おのへの鹿の暁のこゑ」と平家物語の一節を、女めくらは「宇多天皇に十一代の後胤、伊東が嫡子に河津の三郎とて」と曽我物語の一節を語っています。
瞽女の楽器といえば三味線ですが、この頃は鼓を使っていたようです。
三味線が使われるようになったのは戦国時代からで、軽くて幅広い表現が可能なことから、江戸時代には国民的な楽器となりました。

瞽女は、主に門付け(かどづけ。民家の門口などで芸を披露すること)や祭礼などで、上記の平家物語や曽我物語といった軍記物語や、独特の節回しを持つ瞽女歌を歌って聴衆を楽しませました。
また、冠婚葬祭の席で祝い歌や弔い歌を歌うこともありました。

昭和48年の瞽女に関するニュース。映像中で瞽女唄が聞ける。

娯楽のない農村部では、歓迎されたそうです。
正月や祭りのときはかきいれ時で、お祝いごとや雨乞いのときなどにも呼ばれました。

瞽女になる女性の多くは、生まれつき、あるいは病気や事故によって幼少期に視力を失った人でした。
当時、障がい者が自立して生計を立てる手段は限られており、目の悪い人はあん摩(マッサージ師)になるか、芸能の道に進むか、といった具合でした。

瞽女には厳しいルールがあった

瞽女にはいくつか流派(組織)があり、特に有名なのは越後(新潟)の長岡瞽女と高田瞽女です。
組織によってその規律は異なりますが、多くが厳しいルールに則ったものでした。

年功序列と弟子入り制度

新人の瞽女は、親方と呼ばれる一人前の瞽女に年期明けまで弟子入りして芸を学びます。
年期が明けないと、一人前と認められず、弟子もとれません。
組織によって違いはありますが、その年期は約10~20年もあり、その間はひたすら芸を磨き、師匠に奉公します。

弟子同士でも序列があり、年期(修業年数)の長い方が姉弟子で、妹弟子は姉弟子に絶対服従でした。

盲目での旅

瞽女は、旅をしながら芸を披露します。
盲目の身でどうやって旅をしていたかというと、目明き(目の見える)瞽女が先頭に立ち、先導します。
目の見えない瞽女がその後ろに続いて、旅をしていました。

和国百女
旅をする瞽女たち
菱川師宣 画『和国百女』,刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2541159 (参照 2024-07-18)

男女関係は御法度

瞽女のルールの中で、最も厳しいのが男女関係です。
男性と性的な関係を持った瞽女は、問答無用で組織から追放されました。
男女関係により追放された瞽女は、「はぐれ瞽女」「はなれ瞽女」「はずれ瞽女」などと呼ばれ、たった一人で生きていくこととなります。
巡業先で宿泊する時などは、夜這いされないよう(襲われないよう)に両膝を紐で縛ってから寝たりするなど自衛手段をとる瞽女もいました。

他にも、ルールを破った者に課せられる罰として「年落とし」「縁切り金」などがありました。
年落としは、年期を減らされること。
これにより姉弟子と妹弟子の年期が逆転した場合、昨日まで姉弟子で妹弟子に命令していた者が、今日から妹弟子に命令されることになります。
縁切り金は罰金です。

瞽女の生活水準と所得レベル

中世の瞽女

瞽女の収入は、依頼主からの謝礼が主でした。
裕福な家の祝宴や法要などに呼ばれれば、比較的まとまった謝礼を得ることができたようです。

Goze
富豪の酒宴に招かれた3名の瞽女 『日本風俗図絵』第3輯(1914-1915年〈大正3-4年〉刊行)
黒川真道, Public domain, via Wikimedia Commons

権力者からの具体的な報酬内容が前述の『看聞日記』にも書いてあります。
盲目の女芸人・愛寿と菊寿がこのときにもらった褒美は、「練香、髪の結び紐や檀紙十帖」とあります。

このうち檀紙とは、儀式や贈答用、高級文書などによく使われた高級和紙。
檀紙の値段ははっきりしませんが、近衛家の日常の収支を記録した『雑事要録』によると、檀紙と同等もしくは少し下位の引合という和紙が、1498年に十帖で380文だったようです。
そして、当時の大工の日当が約100文。
およそ大工の日当の約4倍(またはそれ以上)の価値がある報酬をもらっています。

しかし、これはたまたま良い顧客を持っていた瞽女の場合で、他は一般庶民からの施しに頼ることも多く、安定した収入があったとは言い難い状況でした。

当時の一般的な生活水準と比べると、瞽女の暮らしぶりは決して楽ではなかったでしょう。
宿無しの旅を続ける日々の中で、厳しい自然条件や病気などの危険にもさらされていたのです。

近代の瞽女

Eliza R. Scidmore - Japan 1912 - Goze
菊咲く庭で歌う瞽女(1912)
ロック魂を感じる歌い上げっぷりだ
Eliza Ruhamah Scidmore, Public domain, via Wikimedia Commons

門付け営業で得られる収入は、聴衆の「お気持ち」です。
金額は決まっておらず、時には米や農産物であることもあり、それを食べたり売って現金化したりしていました。

人や季節によって収入は変動しますが、明治期の盲人の「琴三弦業」(=瞽女)の月額賃金のデータとしては、明治13年時点で約3.6円、明治44年時点で約6.2円だったようです。
当時の巡査の月給が、明治13年で約6円、明治43年で約12円。
おおむねその半分しかないので、どちらかというと厳しい生活でしょう。

また別の資料として、元NHKディレクター・川野楠己の著書『最後の瞽女 小林ハル』によると、明治末期の瞽女の巡業で、門付けで訪れた集落で茶碗一杯の米を集めるうちに、すぐに一斗(十升)ぐらいになったとあります。
当時の米一升の平均相場が12銭前後で、十升であれば120銭(=1円20銭)。

巡業で得たお金は、基本的には師匠と弟子で均等に分配されますが、師匠によっては弟子の上前をはねる人もいました。
一集落で120銭稼げるとはいえ、そこから経費を引き、複数人で割るとあまり多くは残らなさそうです。

瞽女の社会への影響と廃れた理由

瞽女は、庶民の娯楽として、また祭礼や人生儀礼に欠かせない存在として、長く親しまれてきました。
特に、識字率が低かった時代において、歴史や文学の知識を口承で伝える役割を担っていたと言えるでしょう。

しかし、明治時代以降、映画の前身である活動写真やラジオ放送が始まり、娯楽が増えたことによって瞽女の需要が減少していきます。
また、盲学校の設立など福祉制度の整備が進んだことで、目の悪い人の選択肢も広がりました。
第二次世界大戦以後は、一般家庭へのテレビの普及も進み、さらに減少の一途をたどります。

最後の瞽女

最後の瞽女と呼ばれたのは、明治33年生まれの小林ハルさんです。
1978年には選択無形文化財「瞽女唄」保持者として認定され、翌1979年には黄綬褒章を授与されています。
小林ハルさんは2005年に105歳で亡くなられましたが、1996年、96歳の時の瞽女歌をCDに残しています。

瞽女を描いた作品

映画「はなれ瞽女おりん」(1977)

監督:篠田正浩、制作国:日本、キャスト:岩下志麻、原田芳雄、樹木希林ほか

あらすじ
大正時代。盲目の旅芸人おりんは、平太郎という大男と出会い、一緒に旅を続けることに。平太郎は行く先々で献身的におりんの世話を続けるが、ある日、彼が留守の隙におりんが別の男に手籠めにされてしまう。それを知った平太郎は、おりんのもとを去るが…。

U-NEXT

チェルシー

タイトルの「はなれ瞽女」だけで厳しい運命をたどることがわかる作品。美しい自然風景と相まって、おりんの結末はずしっときます。あと、おりんを演じる岩下志麻さんがめちゃくちゃ美しい。原作は水上勉の同名小説。

映画「瞽女GOZE」(2020)

監督:瀧澤正治、制作国:日本、キャスト:川北のん、吉本実憂、中島ひろ子、冨樫真ほか

あらすじ
生後3ヶ月で失明したハルは2歳のとき父と死別。盲目の為に七歳で瞽女になる、それまでは優しい母であったトメは、瞽女になった時から心を鬼にしてハルを厳しく躾ける。それは、母親が子を思う愛情の深さだった。その母親の優しさを気がつかないまま八歳でフジ親方と共に初めて巡業の旅に出る。その年、病が悪化してトメはこの世を去る。死別の際、ハルは自分を虐めた鬼である母親に涙一つ流さなかった。
苛酷な瞽女人生の中でハルは意地悪なフジ親方からは瞽女として生き抜く力を、サワ親方からは瞽女の心を授かるのである。ハルは言う「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」と・・・・
こうして様々な困難を経て親方になったハルは初めて幼い弟子ハナヨを向かい入れる、何も知らないハナヨを瞽女として生きていける様にとハルは厳しく躾をした時、自分が幼い頃母から鬼の様に厳しく躾けられる姿が走馬灯のように浮かび上がる。
その時、ハルは自分を愛してくれた母親トメの慈愛の深さを知る「カカさ・・・あり~がと・・・」
ハルは母に感謝の涙を流すのであった。

映画『瞽女GOZE』公式サイト

チェルシー

最後の瞽女・小林ハルの人生を描いた映画。

写真集「瞽女(完全版)」(2021)

チェルシー

写真家・橋本照嵩が1972~1973年、実際の瞽女の旅に同行して撮影した写真。「生の」瞽女の姿がそこにあります。

AIで再現!瞽女さんたち

AIに、明治期の瞽女さんたちを再現してもらいました。

AIに描いてもらった瞽女さん
AIに描いてもらった瞽女さん

いい線いってるが、三味線が出ない。
ギターか琵琶っぽいのになる。

AIに描いてもらった瞽女さん
AIに描いてもらった瞽女さん

ちょっと中国テイストも感じる衣装。

AIに描いてもらった瞽女さん
AIに描いてもらった瞽女さん

三味線が出ないのである。
イメージで感じてくれ!
あとそこはかとなく沖縄感あるよね!

まとめ

瞽女の歴史からは、障がい者の自立と社会参加の難しさ、そして伝統芸能の継承の大切さを学ぶことができます。

現代でも、障がい者の就労支援や芸術活動の促進は大きな課題です。
瞽女のように、個人の能力を生かし、社会と関わる道を広げていくことが求められています。

また、瞽女が長く伝えてきた古典芸能は、日本の貴重な文化遺産です。
これを次世代に継承し、現代に生かしていくことも私たちの責務と言えるでしょう。

参考資料